komorebi-noteのブログ

子どもたち二人が大学生となり、今まで子ども達中心だった生活からふと自分自身のこれからを考えた時、思い切って長年勤めていた仕事を転職しました。慣れない仕事に奮闘しながらの日々の記録です。

長かった1週間

先週末夜。2番目の兄から電話があった。

第一報は

「お母さんが胸が苦しいと言って救急車を呼んだ。でも横になっていたら楽になったみたいで、歩けて普通に話せるくらいに回復してる。お母さんはおおごとにしたくなくて、大丈夫とは言っていたが、念のため病院に行ってくる。」という内容だった。

 

3年前も実は今回のように急に心臓発作で父が倒れ、

同じような時間に電話がきた。

父の時は救急車で運ばれたときは手の施しようがないほどの状態であり、

明け方にあっという間に旅立ってしまった。

 

それまでは兄二人も私も大学進学以降、鳥取の実家を離れて遠方で生活をしていたが、

父が亡くなった後は2番目の兄が父の会社を引き継ぐことになり、

1人になってしまった実家の母の近くには2番目の兄が住むことになった。

 

今回は兄が母のそばについていてくれたこと、そして父の時のような切迫した状況ではないと聞き、心底ほっとした。

また連絡をして、と、その時はこれほどまでに大事になるとは思わず、しかし心配で落ち着かない気持ちで電話を切った。

 

しかし、その後救急車の中で状況は一変し、着いた頃には話せない状態になっていたという。

手術室に入る前、意識はあり、すまなそうな目をしていたが、

兄の「大丈夫だけんね。」という声かけには、うんうん、とうなずいていたという。

 

のちに医師からは心臓の大動脈解離であったと説明を受けた。

動脈が裂けていたけど、薄い膜がかろうじて残っていて手術直前まで持ちこたえて

いたという。

それを聞いて、一度横になり、よくなったからと立ち歩いたり、救急車を呼んだので、近所の人に挨拶したりしていたそうで、

知らなかったとはいえ、そんなぎりぎりの状態だったのか、とぞっとした。

 

手術は朝までかかるとのことで、父の時と同様、手術が終わるころに

大阪から実家のある米子へ到着できるよう、朝一の新幹線とやくもで向かうことに。

 

2度目の電話の後、自分でもびっくりするほど動揺しており、

まだ今日中の電車が間に合うかも、

と調べようとするも、いつもの路線アプリでなく、ChatGPTに聞き、ひたすら

とんちんかんな答えを受け取るというやり取りをしばらく続けていた。

 

ちなみにChatGPT、「今すぐ5分後の新幹線に乗るのです!」とか、

「とにかく窓口で一番早く着く電車を聞くのです!」とか

「ひとまず、もう「やくも」はないけど岡山まで行くのです!」

とか言い出して、(いやいや、まだ自宅だし。。むりだって、)

と私以上に動揺している感じを出していて、ちょっと人間ぽいな、

と思ってしまった。

 

手が震えて何度も打ち直す、ということを繰り返し、

予定を変更しなければいけない各方面への連絡や帰省の準備も、

いちいち「えっと、なんだっけ、」

とフリーズしながら進めていた。

 

実家への帰省は緊急事態でもない限り、いつも車か、あるいは高速バスである。

前回「やくも」にのったのは父が倒れた時の緊急の帰省の時で、

その時はおよそ30年ぶりであった。

その時も、あぁそうだった、と思ったのだが、

今回もまた、あぁ、そうだったよね、と思った。

特急やくもは、岡山から米子に通じる路線で、どうやって通したのだろう、というくらい険しい山道を通っている鉄道である。

窓からの景色はまさに秘境。そして、揺れが強烈なのである。

普段電車で酔わない人でもなかなかのダメージを受けることになる。

そして、体感時間が永遠、ともいえるほど、長いのである。

(揺れが苦手なのと、毎回このような緊急事態という状況もあるのだろうが)

 

しかし、このような時に一番早く到着できる、という意味では

なくてはならない存在であり、文句を言ってはばちが当たるというものである。

 

そして、この大動脈解離、場所によりかなり明暗が分かれるそうで、母の場合はとても難しい部分であったようで、手術後も一日がかりで様々な処置をして頂いた。

その間、手術から24時間近く医師や医療関係者の方には休む間もなく対応を頂いて、本当に感謝してもしきれないほどであった。

 

今、ちょうど1週間たち、まだ意識を戻せるほどの回復には至っていないが、

予断を許さない状況、というのは脱したということで少しほっとしている。

手術後職場には事情を説明すると、すぐに、1週間はこなくていいから、

と言ってもらい休みをもらい、その間病院の宿泊施設に泊まり、

兄たちやそれぞれの子どもたちも次々に来て母に声をかけ続けていた。

 

ちなみに、私は下の子を出産する時、帝王切開となり全身麻酔をしたのだが、

意識がない間、ずっとそばで会話が聞こえていて、

(今回とは逆で、母の声がずっと聞こえていた。とってもくだらない内容の話だったが。。)

それを今もはっきりと覚えているので、

たとえ意識が戻った時に覚えていなくても、きっと母も聞こえている、

と信じて話していた。

 

実は、この最近、私と母は少し微妙な関係になっていた。

年齢を重ねるごとに価値観の違いやすれ違いが出てきて、

年数回会ったり、時々電話で話す度に自分を否定されるような気持になった。

話した後はがっかりしたり、暗い気持ちになる為、あまり深く話さない様にしたり、

表面的な会話をあえて心がけるようにしていた。

育ってきた時代背景や環境が違うので、価値観の違いがあるのは当たり前なのだが、

ここ最近でその違和感が大きくなり自分でも消化できなくなっていると感じていた。

 

今回一番身近にいた兄から母の最近の様子を聞き、電話では分からなかったことや

、普段離れているからこそ、ほんのささいな小さなわだかまりが、自分の中で修復できないほど大きくなっていたのかもしれない、と思った。

後悔、とはまた違うのだが、

このまま最後になることの準備も覚悟も何もできていない状況の中で、

自分がもう少し違った視点でものごとをとらえることができていたり、

「許す」ことができていたら、今もっと楽になれただろうか、などと考える。

 

そしてまだこのような状況の為この文章を書くこともはじめは迷っていた。

ただ、まとまりもなく、混乱した状況や文章ではあるが、それをそのまま残しておくこともよいかもしれない、と思い、一つの記録として残すことにした。

 

一旦戻り、明日から一応仕事を再開する。人手不足にかかわらず、

快く1週間の休みを頂いた職場の方々に感謝をしつつ、

ただ、今後の色々なことを考えると、周りへの迷惑など現実的な問題として、

仕事を継続することへの不安も、正直なところ出てきてしまっている。

今はまだ先は見えないが、ひとまず母の命が繋がったことや

周りからの協力に感謝をしつつ、

できる事をやっていきたいと思う。

 

病院の待合室からみえる景色 一日がとても長く感じられた。